ずいぶんやつれた。スマートフォンの手鏡機能を使ったのは初めてだ。液晶に移る自分は以前に比べ目が細く、髪も伸び放題であった。きっとこれが最後の身だしなみチェックになるだろう。ベランダに出て、心地よい春の風を身体に浴びせる。静かにジャージを取り込んだ。ハンガーをかけなおしベランダから室内に戻る。ピシャと戸を閉めると、吹き込んでたきた窮屈な風がかかとをつついた。ジャージを羽織る。洗濯をしたので柔軟剤のにおいがする。久しぶりに袖を通したジャージは思ったよりも新しいように見えて、ほんの少しだけ懐かしかった。

靴下ははかない、玄関まで行き、スリッパをはいた。これまた久しぶりの外出で、ドアノブを捻ろうとする手が小刻みに震える。覚悟はできているはずなのに心の底では怖いと悲鳴を上げている。左手で震える右手を押さえるが、左手もまた怖がっている。ジャージを羽織ったはずなのに、戸から冷たい風が吹いているようで寒気がする。怖いのだ。その寒気は居心地の悪さにかわってすぐにここから出たいと思った。勢いでドアノブを捻る。

目の前には懐かしい町並みが広がっていた。ほっと胸を撫で下ろすとまだ生きたいと、風に髪がなびいた。恐る恐る一歩踏み出し、二歩目も続く。存外歩くのは容易くて、アパートの階段をひょいひょいと下りていけた。

ここからどこへ向かおうか。さながら冒険者のような気もちでいる。しかし、向かう場所は決まっている。ここから少し離れた廃ビル。カフェに入り浸っていたころ、客が話していたビル。買い取り手を探しているらしいが、一向に見当たらず、ほぼ放置状態らしい。今現在がどうなっているかわからないが、望みをかけていってみることにした。下見はした。カフェにいたころ散歩といって様子をみていた。だいたいの道は想象できる。だって橙のやつらと散歩したんだから。

 

約20分。体感としてはそんなに長く感じられなかった。一度しか通ったことのない道なのに、そこらじゅうに橙のやつとか他のところの仲良いやつらがいた。何か言ってるようだったけど、怖くて頭を下げていた。みえるのはコンクリートだけ。でもそれでも琉輝の笑顔が薄ぼんやりと見えるようで怖かった。きっと道すがら話しかけてきていた連中も俺の死を待ち望んでいる。そう思うようにすると、死んでやろうと尚覚悟できた。

ビル内に入る。続く階段をかつかつと上っていく。あたりはしんとしていて、人気はない。風がふくと窓ががたがたなり、もぬけの殻となった各階は寂しさであふれていた。

ひとしきり歩いた。やはり、長い間運動していなかったので足が痛い。表現しようのない気味悪い痛さと闘っていると、薄く光の差すドアが見えた。やっと屋上だ。

屋上までの階段は片手で数えるほどしかなかった。あたたかい光に吸い込まれるように駆け上がり、ドアノブをめいっぱい引く。風が吹き込んで気持ちよかった。ドアノブから手を離し、外へ出る。あたりは白く、手すりの向こうに町が見えた。俺の生まれ育った町だ。

日はだいぶ落ちてあかあかとしていた。あたたかい光の正体に目を細めると、目のおくから涙が湧き上がり、喉の奥が締め付けれる。夕日に手を伸ばし、誘われる。とぼとぼ手招きされるほうへ歩いていく。何かが下腹につっかえた。しかし、手招きするなにかはひとつから二つみっつに増えて、俺をどんどん引き寄せた。腹のつっかえもいよいよとれ、喉の奥から叫んだ。

風が吹き付ける。ゆっくりおちていく。ビルの窓に赤い夕焼けが映っている。こんなにきれいな夕焼けをみたのはいつぶりだろう。この夕焼けが全部包んでくれていた。悪いこともいいことも全部全部いい思い出にしてくれた。ふと蘇るのは好きだった公園、ばいばいと振る手、色とりどりの毛髪、嘆き悲しむ子どもの声、あの日のこと。死んでしまうことに恐怖はなかった。いや、全て忘れられる嬉しい。うっすら笑みを浮かべた。

 

_________________ちゃん。ゆうちゃん

 

暗い世界にまぶしいほどの光がともり、次第にそれに慣れていく。ぼやけていた何かの姿もはっきりした。皐月だ。

 

「ゆうちゃん...!

 

包帯でぐるぐる巻きにされた俺をの手をとって皐月はかたく握り締める。ぽたぽたと暖かい涙が落ちてきていた。顔を赤くしてなく姿は始めてみた。

 

「皐月さつき!!」

 

嬉しくなって彼女の名前を連呼した。改めて室内を見渡す。俺はどうやら大怪我をしたようで、頭にも包帯、手にも包帯、腹部に何かがあたるとちょい痛い、そんな症状らしい。

 

「あっ、喫煙者たち」

「おう、お前もよくやるよな」

 

呆れたようにため息をつくのは静で、隣の大騎は「生きてるからいいじゃねえか」と静の肩を叩いた。

他にも仲良くしている連中がぞろぞろ集まっていて、驚いた。

その仲でも一際目を引いたのが

 

「生きてるかー夕緋ー」

「生きててよかった...!!ゆうひ!」

「そういうところだけは覚悟ありますよね」

 

と色とりどりなやつらだった。

 

「そりゃ生きてるわ。元気げんきぴんぴんしてる」

 

その一言に彼らは安堵したようで、三人は顔を見合わせ微笑んだ。

 

「ところでキミってすっごい髪の色してるよね、いや、俺も人のこと言えないんだけどさ、なんかあったようでなかった!!みたいな色してるよね」

「...?まあ、そうやな」

 

奇抜なライムグリーンの髪をした彼は不思議そうに言った。きっと染めたのか地毛なのか言いたくないんだろう。見た目もまだ若そうだし、やんちゃしているはず。

 

「...なあ夕緋。おれの名前わかる?」

「...」

 

知らぬ間に病室内には重たい沈黙がよどんでいた。

なんていえばいいのだろう、正直なところでいいのだろうか。

 

「...知らないけど」

「そっか」

「なんか仲よさそうに話して来るから、俺が忘れてるだけで昔知り合いだったのかなーとか思って話してた」

 

彼は薄く笑みを浮かべて一歩身を引いた。

すると隣の二人が悲しそうにこちらを見詰めて、仕方ないというような口ぶりで「名前わかるか」と聞いてきた。もちろん知らない。知るはずない。記憶にないのだから。皐月はわかる。大騎も静もほかのグループの奴らも。でもこの三人は知らない。一体誰だ?

 

「記憶障害」

「だね、僕たち三人の記憶いや、四人。多分これはるきの記憶さえもが抜け落ちてる」

 

ライムグリーンの彼に続いて、黒髪の子が冷静につぶやく。やっぱり三人は、俺と昔知り合いだったみたいだ。るきという新しい登場人物が出てきたがその子も知らない。

 

「あ、そういえばまだ自己紹介してなかったね、僕は真尋、よろしくね」

「こっちのすっごい髪の色の子が洋一で、赤メガネで真面目な子が敬矢」

「おう!!よろしくな!」

 

真尋が紹介すると二人も軽く頭を下げて笑った。

するととたんに皐月が叫んだ。

 

「何がよろしくよ...」

「もうちょっとはマシなこと言うかと思って黙ってたけど、こんなの全然ゆうちゃんじゃないわよ」

 

病室が一気に緊張状態になり、見知った連中は顔を見合わせて空気を読んだのかそれぞれ病室を出て行った。

 

「あの日の仲直り、するんじゃないの...するんじゃなかったの!?どんだけ私たちが協力してきたと思ってるのよ、何のために病院まで来てるのよ。ゆうちゃんのことが心配だからよ!そのゆうちゃんはね、すっごくヘタレで、身を投げた友達のこと10年も引きずってるの、それでいて自殺考えてでも、まわりの人たちに助けられて生きてきたゆうちゃんなの!!!!そのまわりの人ってわたしたちのことだけじゃないのよ!!この三人が大事なんじゃない!!おまけにるきくんのことまで忘れちゃって、なんなのよ...あなた今、どうしてここにいるか分かってる...?自殺したのよ...?昔の自分と共に

 

三人とも絶句した。敬矢が荒れ狂う皐月を宥めるが「やめて」と冷たく振り払った。

 

「あんたたちはなんなのよ、昔のこと忘れたっていいって言うの...?あの日のこと、忘れていないでしょう?本当に仲直りしたかったんでしょう...!?!?ゆうちゃんは、全部、忘れたんだよ...!こんなのあんたたちの知ってる秋田夕緋じゃないでしょう!!!!」

 

皐月がぎりっと三人をにらむと、洋一が口を開いた。

 

「いや、知らんくてもええやん。知らんくても夕緋はゆうひや」

「なあ」

 

洋一は二人に同意を求める。じわりとうなずくと悲しそうに目を伏せていた。

 

「...ありえない」

 

皐月が目を見開いて言葉を飲み込むと「それじゃあねゆうちゃん」と優しい言葉をかけて病室を去っていった。

叫んでわめいている内容はわからなかった。でも、はじめてそんな皐月を見た。驚いたのは俺だけじゃないらしく、敬矢は人一倍悔しそうにしていた。

 

「なんかごめん」

「あはは、お前が謝る必要ないねんて、迷惑なんてかかってない」

「ゆうひは悪くないよ、いけなくない」

「幸せになってくれさえすればそれでいいですから」

 

三人が口々に言うと自然に首がたてに振った。

 

「ごめんね、きついのに外連れ出しちゃって」

 

真尋がそういいながら俺の車椅子を押してくれる。病院内の庭に出るとたくさんの緑であふれていた。

 

「きついけどきつくないから大丈夫、いっぱい話したい」

「よかった」

 

嬉しそうな明るい声音で真尋が言うと、洋一が喋りだした。

 

「無理に出したのも、見せたいもんがあってな」

「なに?」

「目の前」

 

夕日。あかい夕日。あたりはもう橙色に染まっていて見ている世界をつつんでいた。あたたかくて懐かしいその色に思わず手を伸ばした。

すると、草陰から黒い何かが顔をだし、とことこと俺たちの進む道をふさいだ。

 

「猫ですね」

 

敬矢が言いながら黒々とした猫を抱きかかえると、俺のひざに乗せてくれた。

 

「のそのそ動いてる...。生きてる感じがする」

 

あたたかい猫の腹が太ももにバランスよく乗る。ふにふにとした肉が心地よさそうにしている。心臓の動く音が聞こえる気がした。

 

「ねえねえ、今度俺が歩けるようになったら、カフェ行こう。とっておきの場所だから

「ええもちろん」

「いくいく」

「行く」

 

三人はそれぞれに返事をする。

 

「そこがね、さっきいた皐月がやってる店なんだけど」

「知ってる知ってる」

「本当?あそこのココアのみにばっかずっと行ってるんだよね」

「市販のココアちゃうか」

「皐月はきちんと夕緋が好きな分量を把握しています。舐めないでください」

「でも市販のやろ」

「おいしいからいいんじゃね」

 

他愛もない話を日が暮れるまで話していたい。夕日に包まれた庭で四人はきっと同じくそう思った。

 

たびたび、俺のひざの上で黒猫がミャアと鳴いた。